朝、恋人が耳鼻科に行っている間に、会社から支給された新しいノートPCの設定をした。古いノートPCに入っていたデータの移行と、カーソルやクリック、ファイル表示の仕様など、基本的な設定を少し変更した。これで、仕事の際に古い方を開く必要はおそらくなくなった。新しい方を支給されたのは先週の初めだったが、これだけのことをするのがどうにも億劫で、先週は両方を並行して使っていた。取り掛かってみれば、移行と設定は大したことのない作業だった。ファイルをクラウドに移し、以前やったことのあるPC設定をもう一度すれば良いだけのことだった。だが、仕事に関わることに手をつけようとすると、仕事に付随するあらゆる抱えごとが一気にこちらに降り注いでくるような気がしてしまうのだ。PCに少しいじったくらいでは、上司に仕事の進捗を詰問されたり、社長に叱責されたり、二人に失望されたりはしない(というか、それが原因になってそうした結果が起こることはまずない)と頭で考えれば分かるのだろうが、その頭がこうした不安の原因そのものである場合は、この飛躍に引きずられるがままになってしまう。
要するに、私はPCをいじることが怖いのではなく、自分が仕事を十分にこなせていない、という引け目を、自分がすでに行った分の仕事に対して抱いているということだろう。一昨日、自分の気持ちを振り返った時には、私は「自分の時間が奪われていることを是認したまま、漫然としている」「あるいは、自分の時間を自ら手放した上で、それを『奪われていくまま』にしている」とノートに書いた。私は、労働している間、死んだふりをしているような時間がある。気が進まないことを前に、率先して着手するでもなく、それについて考えを巡らすでもなく、かといって完全に放棄して心ゆくままサボるわけでもなく、ただただ同じ場所で鈍い足踏みを繰り返すような時間。こうした時間を、私はまず自分のもとに取り戻す必要があると思った。「自分は十分な仕事ができていないのではないか」という気持ちは、実際に取り戻す際に何をすべきか、指し示す指標になるだろうか。
まずできることは、仕事の中で「死んだふり」をしているタイミングをよく自覚することだろう。「死んだふり」は自分で意図してそうしている、というより、周囲から受ける影響や、自分の認識の仕方が絡まり合って起こるように感じる。ただ「死んだふりをしない」と決めても、それは思いがけない仕方で—決意をすり抜ける仕方で—起こるはずだ。だから、自分自身から距離をとり、一日の終わりに振り返ってみる。そして、自分が漫然と過ごした時間の前に何があったか、それがどれくらい続いたのかを思い出す。そうして、自分を知ることから始めてみるのはどうか。自分の時間を取り戻すなら、その取り戻した時間が手渡される自分自身が誰なのか、知っておくに越したことはないだろう。



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